上のヘナチョコの図面は、私が在学中の京都の芸大のスクーリング(入学したのは通信教育学部なのだが、それでも年に何回か通学して授業を受けることをこう呼ぶらしい。芸大という性格上、このスクーリングがやたらとあるのがここの特徴)で、提出した課題である。VectorWorksという、イラストレーターをより製図作図に特化した機能のようなソフトの習得を目指す授業だ。
四角い建物の枠の平面図と断面図が用意され、これをベースに自由なコンセプトで考えた空間をソフトで作図せよ、というのが課題。習熟度の高い学友たちは躯体の構造自体を変えるといった荒業を用いていたが、私はコンセプト勝負。この図面は、将来私が建てる豪邸の離れ、という設定である(離れの述床面積が80平米って、いったい母屋はどんだけデカイんだ、とも思うが...)。
私の家の離れなので、人間は私と私の招いた者しか入れない。人間用玄関を開けるとすぐ正面に扉付きの階段(図面では時間切れで扉が描けていない。ソフトを持ってないのでこのエッセイのために完成できなかった)があり、2階の人間用スペースへ進む。ただしこの建物、ネコにとってはパブリックスペースで、1階平面図上のドアは、よくあるネコしか入れない、上部に蝶つがいの付いた小さなドア。
上から見ると肉球の形をしているのは低い枠で囲まれたスペースで、枠の高さはそれぞれまちまち。断面図にあるように一番高いものでは300ミリになり、子ネコが超えるには難しくしてある。また、へりの部分もネコが歩けるよう、50ミリの幅を持たせている。
吹抜の部分には爪研ぎ用兼2階へジャンプ用の木があり、選ばれたネコだけが木からブランコを経て2階へ上がれる仕組みである。
また、1階の壁には300ミリ四方50ミリ厚の板を自由に差し込めるくぼみが切ってあり、ネコが昇る階段を好きにレイアウトできるようになっている。下の部分だけ縦に切ってあるのは、ここにネコが隠れたり、子どもを産むための狭いスペースを作るためだ。
ネコはイヌと違って野生本来の習性がほぼ残っている動物であるらしい。ボールとじゃれたり、階段をやたらと登ったり下がったりするのは狩りの本能がさせるもの。狭いところが好きなのは外敵から身を守るため、フトンを踏みたがるのは母親の乳を押して出やすくする子ども時代の習性が残るため、といった具合だ。
このようにネコの主な習性に対応し、マタタビ畑まで用意し、スキルアップして2階へ到達する達成感も提供し、集会所スペースまで作った(ナゾの多いネコの集会は、同じなわばりにいるネコ同士の顔見せの会ではないか、と言われている)、まさにネコの楽園ともいうべき建物がこの作品なのである。
スクーリングは大体1セット3日間で、最初の1日半は規定課題、つまりみな同じものを先生の指導を受けながら完成させる。残りの1日半が自由課題で、最後の1~2時間を使って各自がプレゼンテーション、というのが基本のパターン。今回は22人が参加していたので、ひとりたったの3分でプレゼンをして授業は無事終了。
そのあと、帰り支度をしている私に若い女子学生が、「図面に文句を言っていいですか?」と声をかけてきた。「文句」とはなんと尊大な。「いいえダメです。意見は聞くけど文句は聞かない」などと気の弱い私が言えるはずもなく、「いいよ」とオドオドして応じると、「あの人間用トイレのドア、人間が入れません」と。よく意味がわからなかったので「ああそう」とテキトーに答えてその場は終わった。そして話してみて初めてわかったのだが、彼女はどうやら東南アジア方面の国から来た留学生らしい。最後に「ごめんなさい」とも言っていたので、悪意はなく、「意見」というボキャブラリーがなくて「文句」と言ったんだろうな、と勝手に納得した。
しかし待てよ、私は彼女のプレゼンもちゃんと聞いていたが、あまりの流腸な日本語にその時は外国人だとは気付かなかった。となるとやはりあれは「文句」だったのか。しかもみな初心者で、図面の間違いなんかし放題の中で、なぜ私の作品にだけ「文句」を言ったのか。ちなみに私の名誉のために書くと、20年以上の雑誌編集者人生のうち、3年は住宅関連の雑誌にいた私は間取り図を読む多少のスキルはあるつもりだが、いまだにどこが間違っているのかわからない(この図はJPEGに落とす段階で画像が粗くなっているので、細かい部分は潰れてしまっている)。
思い当たるのは、彼女のプレゼンの内容だ。その留学生は、四角い建物を有料の公共トイレにしていた。理由として、京都に驚くほど公共トイレが少ないことを挙げていて、図面もとても慣れた感じの、それなりに習熟度が高いものだった。
それに比べると私の作品は彼女にとってずいぶんふざけたものに映ったに違いない。もっとも、世の中の役に立つものだけが学問だ、という考え方は、学問の進歩を阻害し、為政者の道具に堕落させる危険がある、とも私は思うのだが、そんなことより問題は「たった3分」のプレゼン時間である。私がこの作品を思いついたのはそれなりの経験と理由がある。
授業が終わったあと他の学友の何人かが一様に「ネコお好きなんですか?」と当然の質問をしてくるので、「いや飼ったことはないんです」と答えると、みな驚いていた。
正確には、飼ったことはないけど一緒に暮らしたことはある。もう20年以上前の冬、母親が、寒い夜を外で過ごすのは可哀想だから、と、夜の間だけノラネコを家に入れるようになった。しかし団地でネコを飼うのはご法度である。次々と産んでしまう子ネコの里親を探し、里子に出す、ということ3匹ほど繰り返した。その冬のわずかな間、夜だけネコと一緒に寝た。ある日、いつのまにか布団への入り方を覚えて、目が覚めたら目の前に同じ枕でネコが寝ていた時には、さすがにあまりの可愛さに里子に出すのが惜しくなった。
これが強烈なネコ体験として私の中にあり、今のマンションではネコは飼っていいのだが、できるなら家ネコにはしたくない。となると4階でも外ネコを飼うのは東京では特に不可能だ。
だからこの作品は冗談ではなく私の理想の家、というより空間である。私はネコを「飼う」のではなく、一緒に暮らしたい。そのための空間である。建築は壁で仕切られた空間しか作れない、という宿命を持っているが、本来空間とは、英語では宇宙と同じ意味を持つspaceであるように、壁に仕切られなくても成立するものである。この建物は、人間にとっては壁で仕切られた空間であるが、ネコにとっては外界との隔てがない、壁はないのと同じ空間であることに、私なりの意味を持たせたつもりなのである。
しかし残念ながら3分ではこの建物の機能を説明するのが精一杯で、コンセプトやなぜこの建物を作ったかの理由までは話せない。せめてあと2分プレゼンの時間をもらえたら、留学生に「文句」は言わせなかったんではないか、と歯がゆい思いをした。
芸術に限らず、学問とは、経済学でも法学でも、研究し、創造することと同じくらい表現することも主眼でなければいけないはずだ。極論を言えば、デザインがいかに独創的で秀逸な建築家も、それをプレゼンする能力が不足していたらそれは建築家としてのスキルが低い、と言っていいと思う。プロの場合、プレゼンに長けた相棒を見つければそれはそれでいいとは思うが。
スクーリングは一回ごとに1万円以上の受講料を学生から取る。だからビジネス的には学生は多ければ多いほどいいのだろうが、本来、プレゼンにひとり10分は与えられるような人数制限をしてもいいのではないか。でないと、私自身はこれからもこういったフラストレーションを度々感じるような気がしてならない。
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