2009年9月アーカイブ

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 amadana限定版携帯です。

 限定5000台のうちの一台。購入して1年半くらいたった先月、突然電源が切れて二度と入らなくなってしまった。ITリテラシーの低い僕は当然バックアップなんか取ってなかったから、この1年半に入力したデータは全部なくなりました。

 幸いそう多くはなかったんだけど、最近入力したデータが一番使いますわね。

 常々僕は、日本のユーザーは「機械は壊れる」という当たり前の道理を忘れている事が多いと感じてきた。それはとりもなおさず、日本の機械は優秀でめったに壊れないからなんだが、それがかえって人々の創造力を失わせているとも思える。

 典型的な商品は自動車と家電製品。まず壊れることはないので、使っているうちにどういう原理でその機械が動くのか、ということを忘れてくる。自動車がどういう原理で作られていて、なぜ動くのかは、免許を持っている以上誰でも教えられたはずなのだ。

 しかし壊れない機械の仕組みを覚えていても意味がない。ところがめったにない故障に合うと慌ててディーラーに怒鳴り込む、といった具合だ。動く仕組みを知っていれば、自分で直せる故障や不具合は案外多い。自分で直せなくとも、いつ、どのように修理に出せば効率が良いかくらいは理解できる。

 機械に限らず、日本人は世の中にあるさまざまなルールに関しても、ルールを教えられるとすぐにそれを覚えてきちんと守るのはいいのだが、なぜそのルールが存在するのかをあまり考えない。

 携帯電話を電車の車内で使ってはいけないのは先進国の中ではおそらく日本だけである。これはそもそも電車の中でだらしなく床に座ってだらだらとくだらないことをしゃべり続ける女子高生の姿が社会問題になったことがきっかけだった。ペースメーカーに干渉するなどは後付けの屁理屈で、よほど密着した状況でない限り干渉することなどまずあり得ないことを多くの専門家が指摘しているし、大体そんな状況で携帯電話は使えない。

 今のルールでは、携帯でひそひそ話してる人はルール違反で、携帯を使わずに車内で大声でバカ話をしている人はルール違反ではない、というそれこそバカげた状況になっている。

 車内で大声で話すのは迷惑だ、というのはルールで規制すべきことではなく、マナーとして守ることではないのか。ルールにしてしまうから、人々の思考が停止してしまい、果てはなぜそのルールがあるのかだれも説明できなくなってしまうのだ。やがてルールを守るのがマナーである、という本末転倒な考えが蔓延してしまう。

 そのくせルールを守っていない人をしたり顔で注意するのはよくやるのも日本人。出る杭は打たれる、ということだろうが、こういう国民性は簡単に全体主義に染められてしまう危険をはらんでいる。日本においては全体主義は先の戦争が終結した時に死んだと思っている人がいたら大間違いだ。郵政選挙で小泉チルドレンに投票した有権者のはたして何割が郵政民営化の意義を考えたり知っていたりしただろうか。おそらく意義どころか意味も知らなかった人がほとんどなのではないか。結果を想像もせず、アメリカの国力も知らずに戦争に賛成した人々を笑うことはできない。

 日本は狭い国土に多くの人々がひしめき合って生きてきたので、突出した行動は控え、いらぬ摩擦は避けるのが生活の知恵でもあったのかもしれない。しかし時代はすべてを国単位で考えることはできないほど世界は狭くなっている。

 おりしも今日民主党政権が発足したわけだが、国民に政治を取り戻す、というなら、国民が自ら考えなければ判断できないような問題を次々と投げかける勇気を持ってほしい。

 さて、話は携帯に戻る。コンピュータはもともとアメリカの発明なので、IT製品はよく壊れる(笑)。もし日本がこの商品を開発していたら、こんな不完全な状態で商品化はしなかっただろう(つまり、商品化は最後までされなかっただろう)。フリーズという言葉が日常的に使われる商品など日本ではありえなかったはずだ。

 そのかわり、コンピュータはその機械の中で、今、なにが行われているかが比較的わかりやすい商品とも言える。僕自身はコンピュータそのものが大嫌いで、こんなものに生活を支配されるのがまっぴらなのだが、今の時代、そんなことを言っていたら仕事ひとつ進まない。仕方なくにせよ、使うからにはITリテラシーが低い、などと言っていては、商品をブラックボックス化している人と変わらない、と反省しきりである。

ネコ屋敷

2009.09.09 | Theme :

平面図断面図

上のヘナチョコの図面は、私が在学中の京都の芸大のスクーリング(入学したのは通信教育学部なのだが、それでも年に何回か通学して授業を受けることをこう呼ぶらしい。芸大という性格上、このスクーリングがやたらとあるのがここの特徴)で、提出した課題である。VectorWorksという、イラストレーターをより製図作図に特化した機能のようなソフトの習得を目指す授業だ。

四角い建物の枠の平面図と断面図が用意され、これをベースに自由なコンセプトで考えた空間をソフトで作図せよ、というのが課題。習熟度の高い学友たちは躯体の構造自体を変えるといった荒業を用いていたが、私はコンセプト勝負。この図面は、将来私が建てる豪邸の離れ、という設定である(離れの述床面積が80平米って、いったい母屋はどんだけデカイんだ、とも思うが...)。

私の家の離れなので、人間は私と私の招いた者しか入れない。人間用玄関を開けるとすぐ正面に扉付きの階段(図面では時間切れで扉が描けていない。ソフトを持ってないのでこのエッセイのために完成できなかった)があり、2階の人間用スペースへ進む。ただしこの建物、ネコにとってはパブリックスペースで、1階平面図上のドアは、よくあるネコしか入れない、上部に蝶つがいの付いた小さなドア。

上から見ると肉球の形をしているのは低い枠で囲まれたスペースで、枠の高さはそれぞれまちまち。断面図にあるように一番高いものでは300ミリになり、子ネコが超えるには難しくしてある。また、へりの部分もネコが歩けるよう、50ミリの幅を持たせている。

吹抜の部分には爪研ぎ用兼2階へジャンプ用の木があり、選ばれたネコだけが木からブランコを経て2階へ上がれる仕組みである。

また、1階の壁には300ミリ四方50ミリ厚の板を自由に差し込めるくぼみが切ってあり、ネコが昇る階段を好きにレイアウトできるようになっている。下の部分だけ縦に切ってあるのは、ここにネコが隠れたり、子どもを産むための狭いスペースを作るためだ。

ネコはイヌと違って野生本来の習性がほぼ残っている動物であるらしい。ボールとじゃれたり、階段をやたらと登ったり下がったりするのは狩りの本能がさせるもの。狭いところが好きなのは外敵から身を守るため、フトンを踏みたがるのは母親の乳を押して出やすくする子ども時代の習性が残るため、といった具合だ。

このようにネコの主な習性に対応し、マタタビ畑まで用意し、スキルアップして2階へ到達する達成感も提供し、集会所スペースまで作った(ナゾの多いネコの集会は、同じなわばりにいるネコ同士の顔見せの会ではないか、と言われている)、まさにネコの楽園ともいうべき建物がこの作品なのである。

スクーリングは大体1セット3日間で、最初の1日半は規定課題、つまりみな同じものを先生の指導を受けながら完成させる。残りの1日半が自由課題で、最後の1~2時間を使って各自がプレゼンテーション、というのが基本のパターン。今回は22人が参加していたので、ひとりたったの3分でプレゼンをして授業は無事終了。

そのあと、帰り支度をしている私に若い女子学生が、「図面に文句を言っていいですか?」と声をかけてきた。「文句」とはなんと尊大な。「いいえダメです。意見は聞くけど文句は聞かない」などと気の弱い私が言えるはずもなく、「いいよ」とオドオドして応じると、「あの人間用トイレのドア、人間が入れません」と。よく意味がわからなかったので「ああそう」とテキトーに答えてその場は終わった。そして話してみて初めてわかったのだが、彼女はどうやら東南アジア方面の国から来た留学生らしい。最後に「ごめんなさい」とも言っていたので、悪意はなく、「意見」というボキャブラリーがなくて「文句」と言ったんだろうな、と勝手に納得した。

しかし待てよ、私は彼女のプレゼンもちゃんと聞いていたが、あまりの流腸な日本語にその時は外国人だとは気付かなかった。となるとやはりあれは「文句」だったのか。しかもみな初心者で、図面の間違いなんかし放題の中で、なぜ私の作品にだけ「文句」を言ったのか。ちなみに私の名誉のために書くと、20年以上の雑誌編集者人生のうち、3年は住宅関連の雑誌にいた私は間取り図を読む多少のスキルはあるつもりだが、いまだにどこが間違っているのかわからない(この図はJPEGに落とす段階で画像が粗くなっているので、細かい部分は潰れてしまっている)。

思い当たるのは、彼女のプレゼンの内容だ。その留学生は、四角い建物を有料の公共トイレにしていた。理由として、京都に驚くほど公共トイレが少ないことを挙げていて、図面もとても慣れた感じの、それなりに習熟度が高いものだった。

それに比べると私の作品は彼女にとってずいぶんふざけたものに映ったに違いない。もっとも、世の中の役に立つものだけが学問だ、という考え方は、学問の進歩を阻害し、為政者の道具に堕落させる危険がある、とも私は思うのだが、そんなことより問題は「たった3分」のプレゼン時間である。私がこの作品を思いついたのはそれなりの経験と理由がある。

授業が終わったあと他の学友の何人かが一様に「ネコお好きなんですか?」と当然の質問をしてくるので、「いや飼ったことはないんです」と答えると、みな驚いていた。

正確には、飼ったことはないけど一緒に暮らしたことはある。もう20年以上前の冬、母親が、寒い夜を外で過ごすのは可哀想だから、と、夜の間だけノラネコを家に入れるようになった。しかし団地でネコを飼うのはご法度である。次々と産んでしまう子ネコの里親を探し、里子に出す、ということ3匹ほど繰り返した。その冬のわずかな間、夜だけネコと一緒に寝た。ある日、いつのまにか布団への入り方を覚えて、目が覚めたら目の前に同じ枕でネコが寝ていた時には、さすがにあまりの可愛さに里子に出すのが惜しくなった。

これが強烈なネコ体験として私の中にあり、今のマンションではネコは飼っていいのだが、できるなら家ネコにはしたくない。となると4階でも外ネコを飼うのは東京では特に不可能だ。

だからこの作品は冗談ではなく私の理想の家、というより空間である。私はネコを「飼う」のではなく、一緒に暮らしたい。そのための空間である。建築は壁で仕切られた空間しか作れない、という宿命を持っているが、本来空間とは、英語では宇宙と同じ意味を持つspaceであるように、壁に仕切られなくても成立するものである。この建物は、人間にとっては壁で仕切られた空間であるが、ネコにとっては外界との隔てがない、壁はないのと同じ空間であることに、私なりの意味を持たせたつもりなのである。

しかし残念ながら3分ではこの建物の機能を説明するのが精一杯で、コンセプトやなぜこの建物を作ったかの理由までは話せない。せめてあと2分プレゼンの時間をもらえたら、留学生に「文句」は言わせなかったんではないか、と歯がゆい思いをした。

芸術に限らず、学問とは、経済学でも法学でも、研究し、創造することと同じくらい表現することも主眼でなければいけないはずだ。極論を言えば、デザインがいかに独創的で秀逸な建築家も、それをプレゼンする能力が不足していたらそれは建築家としてのスキルが低い、と言っていいと思う。プロの場合、プレゼンに長けた相棒を見つければそれはそれでいいとは思うが。

スクーリングは一回ごとに1万円以上の受講料を学生から取る。だからビジネス的には学生は多ければ多いほどいいのだろうが、本来、プレゼンにひとり10分は与えられるような人数制限をしてもいいのではないか。でないと、私自身はこれからもこういったフラストレーションを度々感じるような気がしてならない。

はじめまして。

2009.09.08 | Theme :
株式会社アッシュ&カンパニー(H&Co.)は、メディア制作、PRプロデュース、商業開発コンサルティングなどを主業務とする会社です。

「アッシュ」はHのフランス語読みですが、英語では「灰」を意味し、再生のシンボルとしての側面もあります。「灰」から、仲間(カンパニー)と共に新しいものを生み出す会社でありたい、という意味を込めています。

Comments

  • 重信裕之: ゆかりさん、こんな弱小ホームページを発見していただいてありが » 続きを読む
  • yukari: 今頃のコメントで失礼します。 私も少し、家の間取りを書いたり » 続きを読む
  • ゆかり: 9月17日の記事にコメント欄がなかったので、こちらにコメント » 続きを読む
  • 重信裕之: ネコ好きさん、コメントありがとうございます。 池袋でのロケハ » 続きを読む
  • ネコ好き: ネコ屋敷が気になります。何匹入れるのでしょうか? » 続きを読む